琉球の歴史[同友会大学第2講]

6月30日沖縄中小企業家同友会主催で、高良倉吉氏(琉球大学教授)の

ご講演がありました。

 

お話の内容は、ざっと以下の通りです。
1609年 薩摩島津藩進攻により、琉球危機。
3000名対3000名の戦い。
琉球にも軍隊は居たそうだ。
しかし、当時日本で最強と謳われ、戦慣れしていた島津藩に敵わなかったのだろうとのこと。

敗戦後の大きな4つの試練

1.トップの交代・・・島津藩より送り込まれる。
2.与論島以北を島津藩に没収
3.税負担
4.人事介入
1666年~1675年 羽地朝秀が摂政(セッセイ)として、王に次いでNo2として改革断行。

 

3つの改革

1.意識改革
2.首里王府体制強化(経営体制強化・・・学問/生け花/音楽/踊りなど、学問+文化人以外は採用しない)
3.産業振興策(当時中国より砂糖を買い、きびは自宅に植えておやつ代わりとしていたが、開拓してきび栽培し、
  砂糖を徳川幕府に売った。)
税は一定だったため、徳川幕府にキビを売るたびに儲けた。
琉球の発展は、島津藩の発展に繋がると訴え、島津藩承認の上の策だった。
強硬改革のため、民から支持は得られなかった羽地朝秀だったが、職を退いた後に、一部の官僚が改革を引き継いだ。
1682年からは、蔡温が三司官として改革を進める。
蔡温は、学ぶために幾度と訪れた中国で、優れた指導者に出会う。
その指導者から「物事は具体的な目標とシミュレーションを持て」と学ぶ。
蔡温は、土木に強く、今に言う流体力学を研究した。
羽地大川周辺に田畑広げるも、度重なる氾濫を受けたが、水の流れを研究してコントロールした。
台風の影響を受ける海岸には、グリーンベルトを作った。
浜に近いところには、塩に強いアダン、次にテリハボクなどを植えた。
久高島や多良間島、渡名喜島などには、一部に立派なグリーンベルトが残る。
風水学を学び、「抱護」(ほうご)と称し、ふくぎを植えさせた。
村抱護、屋敷抱護としてふくぎを植えた名残が、備瀬に残る。
蔡温の時代には、罪を犯すと科松(トガマツ)といって、松の植林で償わせた。
白アリが喰いにくいチャーギ(イヌマキ)も植林し、緑と山林も管理した。
つまり、50年くらいの長期スパンで考え、施策を実施していた。

 

産業振興の論理ポイント

1.可能な限り自給自足を目指す。
2.農業産業の拡大と生産性の向上
3.国土の合理的な保全
4、琉球ブランド(特産品)の推進など(琉球漆器や織物なども、徳川幕府に売った。)

首里城は浸水性の少ない黒い瓦だった。
当時庶民の家は茅葺の屋根だったが、番所と呼ばれる役所には米蔵があり、防災の観点より番所は瓦葺きとされた。
その際、中国から買っていた瓦を、自作に切り替え、低コストの観点より、赤瓦(浸水性高い)となった。
そして、規制によって町方(都市部)の家並みや官衛の特権的景観として、赤瓦が許されていた。
1889年には、赤瓦規制撤廃なるも、瓦は重く、頑丈な家じゃないと難しいので、裕福な家だけが葺かれていた。

戦後、コンクリート建築へ移行したことから、赤瓦は飾りとして復活し、現首里城も赤瓦になった。


感じたこと
 島津藩の進攻を受け、敗戦したことに始まった様々な改革が行われた。
そのポイントは、自給自足、産業振興、国土保全等、そして、長期展望に立った改革が挙げられる。
纏めて表現すると、リスクマネジメントの「長期戦略」と言えると考えます。

「歴史から学べ」と言われます。 「歴史は繰り返す」とも言われます。
ならば、今沖縄がやろうとする、自助自立とリスクマネジメントの長期戦略は何か?
沖縄県民ひとりひとりが理解し、実現へ向けた施策展開がなされているのか?
その事が、沖縄県民に突きつけられている課題ではないかと考えます。

交易を盛んに行って栄えて琉球王朝は、島津藩進攻に伴い、大きな変革を余儀なくされたが、結果として、
琉球人がよりパワフルになったのではないか?
そして、現代では、日本政府に支配され、自由な発展を支援されつつ、米軍基地の押しつけなどの、一部不合理を
感じさせる事もあり、このことは、島津藩との戦いに敗れた時と似ていると捉えることも出来るのではないか。

いずれにせよ、沖縄経済発展に寄与していきたいという私の想いは変わらない。

				
								

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